「その場しのぎの嘘」はOK?認知症ケアと介護倫理の境界線【認知症対応研修】
- 認知症ケアで声かけに悩んでいる方
- つい「その場しのぎ」で対応してしまう方
- 嘘と優しさの線引きに迷っている方
- 認知症研修の資料を探している方
- 現場で実践できる対応を学びたい方
入所施設の夕方は特に忙しく、認知症の利用者さんから「帰る」「盗まれた」と訴えられることはよくあります。
その場を収めるために、つい「ご家族が来ますよ」などと話を合わせてしまうこともありますよね。
これは現場の防衛本能とも言えますが、介護倫理の面ではリスクもあります。
今回は、「事実を伝えるか、話を合わせるか」というジレンマについて、現場で役立つ対応の考え方を解説します。
この記事を読むメリット
認知症ケアの現場で「嘘」をつきたくなる瞬間

なぜ、私たちは認知症の利用者さんに対して「嘘」をつきたくなってしまうのでしょうか。
それは、正面から事実を伝えても納得してもらえず、同じ問答が延々と繰り返されることに、スタッフ自身が疲弊してしまうからです。
「家に帰りたい」と訴える方に「ここは施設ですよ」と事実を伝えても、「誰がこんな所に連れてきたんだ!」と怒りを増幅させるだけです。
そこで、手っ取り早くその場を収める魔法の言葉として、「夕方になったらお迎えが来ますから、お茶でも飲んで待ちましょう」という「嘘」を使ってしまいます。
一時的にその場は落ち着くため、一見すると「上手なケア」のように思えてしまいます。
しかし、この場当たり的な対応は、後々取り返しのつかない大きなツケとなって現場に返ってきます。
介護倫理から見た「その場しのぎの嘘」のリスク
「利用者さんを落ち着かせるための優しい嘘なら良いのではないか」という意見もあります。
しかし、介護倫理の観点から、その場しのぎの嘘には以下の3つの重大なリスクが存在します。
リスク1:尊厳の侵害(子ども扱い・軽視)
嘘をつくという行為の裏には、「この人は認知症だから、適当なことを言ってもどうせすぐに忘れるだろう」という、相手を軽視する心理が隠れています。
これは、介護保険法でも謳われている「尊厳の保持」に真っ向から反する行為です。
人生の大先輩を「簡単に騙せる相手」として扱うことは、プロとして絶対に避けなければなりません。
リスク2:混乱の増幅とBPSD(周辺症状)の悪化
「あとで家族が来る」と嘘をついた場合、利用者さんはその言葉を信じて待ち続けます。
しかし、いくら待っても家族は来ません。
その結果、「騙された」「見捨てられた」という強い絶望感に襲われ、徘徊が激しくなったり、スタッフに対して暴力を振るったりといったBPSD(行動・心理症状)を急速に悪化させる原因となります。
リスク3:信頼関係の完全な崩壊
認知症の方は、言われた「言葉の内容」や「出来事の事実」は忘れてしまうかもしれません。
しかし、「この人に嫌な思いをさせられた」「騙された」という『感情の記憶』は、健常者以上に強烈に残り続けます。
一度「嘘つきだ」というレッテルを貼られてしまうと、そのスタッフがいくら正しいケアを提供しようとしても、頑なに拒否されるようになります。
嘘がダメなら、常に「正しい事実」を突きつけるべきなのでしょうか。
これもまた、大きな間違いです。
例えば、数年前に亡くなったご主人を毎日探している女性の利用者さんに対し、「ご主人はもう亡くなりましたよ。お葬式も出たじゃないですか」と事実を伝えるケア(リアリティ・オリエンテーション)を行ったとします。
ご本人にとって、ご主人は「今も生きている」のが真実です。
そこで「亡くなった」という事実を突きつけられるのは、「今まさに、最愛の夫が死んだという悲報を突然聞かされた」のと同じ絶望を味わうことになります。
しかも、記憶がリセットされるたびに、毎日毎日、夫の死という新鮮な地獄を味わわせることになります。
「正しい事実」を教え込もうとすることは、時に「心理的虐待」に近いほどの残酷な刃となります。
嘘をついてはいけない、かといって事実を突きつけるのも残酷である。これが、認知症ケアにおける最大のジレンマなのです。
「嘘」で乗り切ろうとして起きたヒヤリハット
ここで、私自身の経験をお話しします。
私は、若いスタッフがこの「嘘のジレンマ」に苦しむ姿を何度も見てきました。
ある日の夕方、入社2年目のスタッフが、激しい帰宅願望を見せる男性利用者さんに対し、業務の忙しさからつい「息子さんが15時に迎えに来るって電話がありましたよ。玄関のソファで待ちましょう」と声をかけてしまいました。
利用者さんは安心した表情になり、玄関のソファにちょこんと座って待機されました。
スタッフはその隙に他の業務をこなしていました。
しかし、15時を過ぎても当然息子さんは来ません。
16時になり、外が暗くなってきた頃、その利用者さんは突然立ち上がり、「息子が事故に遭ったに違いない! 探しに行く!」とパニック状態に陥り、玄関の自動ドアを力任せにこじ開けようと暴れ出しました。
「私が嘘をついたせいで…」と、その若いスタッフは泣きながら利用者さんを必死に止めようとしましたが、利用者さんはスタッフを突き飛ばしてしまいました。
その場しのぎの嘘は、その瞬間のスタッフの負担を軽くするかもしれませんが、数時間後には「嘘の辻褄を合わせるためのさらなる対応」という、何倍にも膨れ上がった負債となって襲ってきます。
結果として、利用者さんを深く傷つけ、スタッフ自身も罪悪感(モラル・ディストレス)で燃え尽きてしまうのです。
「嘘」ではなく「相手の世界に合わせる」プロの技術
嘘もダメ、事実の突きつけもダメ。ではどうすればよいのか。
その答えは「相手の世界(主観的現実)を否定せず、感情に寄り添うこと」です。
これを専門用語で「バリデーション療法」と呼びます。
認知症の方が見ている世界は、私たちが見ている現実とは異なるかもしれません。
しかし、ご本人にとってはそれが「唯一の真実」です。
プロの介護職は、自分の現実を押し付けるのではなく、「相手の世界にお邪魔して、一緒にその世界を体験する」というアプローチをとります。
言葉の「内容(事実かどうか)」にこだわるのではなく、その裏にある「感情(不安・焦り・寂しさ・使命感)」に焦点を当てます。
現場ですぐ使える3つのステップ:
①受容
まずは相手の言葉をそのまま受け止め、繰り返す。(「家に帰りたいんですね」)
②共感(感情の深掘り)
なぜそう思うのか、その背景にある感情に寄り添う。(「家で何か心配なことがあるんですか?」「ご家族が待っているんですね」)
③意識の転換(代替行動)
感情が落ち着いてきたところで、自然に別の行動へ誘導する。(「帰る前に、少し喉を潤しませんか」「荷物の整理を一緒に手伝わせてください」)
【実践】「NGな嘘」と「倫理的な声かけ」変換ワーク
では、現場で頻発する3つのケースについて、NGな対応と、プロフェッショナルとしての「倫理的な声かけ(バリデーション)」を比較してみましょう。
研修の場では、スタッフ同士でロールプレイを行うと非常に効果的です。
ケース1:「ご飯まだ?(食後すぐに言われる)」
食事を済ませたばかりなのに、配膳台の前に来て「まだご飯食べてないんだけど」と怒るケース。
❌ NGな対応(事実の押し付け・嘘)
事実:「さっき食べたばかりじゃないですか!お茶碗も空ですよ」
嘘:「いま、厨房で作ってますから待っててくださいね」
⭕️ プロの対応(感情への寄り添いと転換)
「お腹が空きましたね。(受容) 〇〇さんは、お昼はいつも何を召し上がるのが好きですか?(共感・回想法) 今日は美味しいお茶が入ったので、まずはこれでお腹を温めませんか?(転換)」
解説:
「食べていない」という本人の真実を否定せず、「お腹が空いている(食べたい)」という感情に共感します。好きな食べ物の話に花を咲かせることで気を紛らわせ、お茶や少量の低カロリーなおやつで「口の中を満たす」行動へと誘導します。
ケース2:「仕事に行かなきゃ!(夕暮れ時にソワソワ)」
夕方になると「もうこんな時間だ!仕事に行かないと社長に怒られる!」と焦って施設を出ようとするケース。
❌ NGな対応(事実の押し付け・嘘)
事実:「〇〇さんはもう定年退職して、今は仕事してないですよ」
嘘:「今日は日曜日だから会社はお休みですよ」
⭕️ プロの対応(役割の承認とねぎらい)
「お仕事に行かれるんですね。毎日遅くまで本当にお疲れ様です。(受容) 〇〇さんは、会社でどんなお仕事を任されているんですか?(共感・誇りの回復) 外はもう暗くて危ないので、今日はこの書類の整理(タオルの小分けなど)を、ここで手伝ってもらえませんか?(転換)」
解説:
この訴えの裏には「自分はまだ社会で役に立つ存在だ」という強烈な自負や使命感があります。その誇りを傷つけないよう、長年働いてきたことをねぎらいます。そして、施設内でできる簡単な役割(タオルたたみ等)を「仕事」として依頼することで、承認欲求を満たし、落ち着きを取り戻してもらいます。
ケース3:「母が待ってるの(亡くなった親を探す)」
夜中に部屋から出てきて「お母さんが迎えに来るから帰る」と泣き出すケース。
❌ NGな対応(事実の押し付け・嘘)
事実:「お母様はもう何十年も前に亡くなっていますよ」
嘘:「お母さんはさっき電話があって、今日は来られないそうです」
⭕️ プロの対応(安心感の提供)
「お母様が待っていらっしゃるんですね。(受容) 〇〇さんのお母様は、どんな方だったんですか? 優しいお母様だったんですね。(共感) お母様が迎えに来られるまで、外は寒いので、一緒に温かいお茶を飲んで待ちませんか? 私がそばにいますからね。(転換・安心感)」
解説:
親を探す行為の根底には「強烈な不安」と「無条件に自分を守ってくれる存在(母)への希求」があります。嘘をついて引き止めるのではなく、母親との温かい思い出を一緒に語り合うことで心を温め、「私があなたを守りますよ」というメッセージを行動で伝えます。
おわりに
「その場しのぎの嘘」をつかないケアは、嘘をつくよりも何倍も時間がかかり、スタッフの忍耐力を必要とします。
時には、どんな声かけをしても不穏が収まらない日もあります。
しかし、認知症ケアにおいて私たち介護職が届けるべきなのは、論理的な「正しい事実」を教え込むことではありません。
「あなたが今いるこの場所は安全で、私たちは絶対にあなたを否定しないし、見捨てない」という『絶対的な安心感』を届けることです。
相手の壊れかけた世界にそっとお邪魔し、不安な感情に寄り添い、共に歩む。
それこそが、プロフェッショナルとしての最も尊く、倫理的なケアの姿です。
そして最後に重要なのは、この対応を「チーム全体で統一する」ことです。
Aさんは事実を突きつけ、Bさんは嘘をつき、Cさんはバリデーションを行う…という状態では、利用者さんはさらに混乱してしまいます。
困難なケースにぶつかった時こそ、カンファレンスを開き「この方にはどういう声かけが一番安心してもらえるか」をチームで話し合い、共有してください。
「嘘」という安易な手段を手放すことは、スタッフとしての本当の技術と、利用者さんとの揺るぎない信頼関係を手に入れる第一歩となります。
この研修をきっかけに、ぜひ皆さんのフロアでの「声かけ」を見直してみてください。
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